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【梁啓超故居紀念館】清末民初に才気を放った俊英の軌跡をたどる、気品あふれる記念館を訪問2025.09.04

梁啓超故居紀念館の序庁正面玄関に飾られている梁啓超像

 

同記念館の広場の部に立つ梁啓超像

梁啓超とはどんな人物か?
清末から民国初期にかけて活躍した革命家・政治家であり、後年はジャーナリストや思想家としても大きな足跡を残した人物が梁啓超(1873〜1929年)です。今回は、彼の故郷である広東省江門市新会区にある「梁啓超故居紀念館」を訪ね、その功績と記念館について紹介します。

 

 

同紀念館の近くには、江門名産の陳皮(蜜柑の皮を乾燥させ、お茶や料理に使う)のお店がたくさんある

 

梁啓超故里

江門が生んだ俊才
梁啓超は1873年、新会の南部で生まれました。家は裕福ではありませんでしたが、学問を重んじる家庭で育ち、幼い頃から多くの書物に親しみました。15歳のとき、広東有数の学問所「学海堂」に入学し、考証学を中心に学びます。さらに17歳で科挙の郷試に優秀な成績で合格し、挙人となりました。
18歳のとき、のちに師となる康有為と出会います。康有為が広州で私塾「万木草堂」を開いた際に学び、その「大同思想」に強い影響を受けました。梁はその思想を広める役割を担うようになります。

 

洋風建築が美しい同紀念館の序庁。写真資料のほとんどはここから撮影

 

若き梁啓超は学者の康有為に従い、やがて清朝の光緒帝に認められるまでになる(3枚目左)

変法運動と亡命
1895年、北京に上った梁は、日清戦争後の下関条約に康有為と共に反対の立場を表明します。翌年には変法派の一員となり、1898年、光緒帝の信任を受けて政治改革(戊戌変法)に参加しました。ところが100日後、西太后のクーデターにより失脚。日本を経てアメリカに亡命します。
亡命生活の中で、梁は西欧や日本の制度・思想を学び、近代化の理念を多く著述に残しました。

 

戊戌変法の支持勢力と同調者たち

戊戌変法は、清朝末期の 1898年にわずか約100日間行われた政治改革運動 です。
改革の内容は、
・科挙制度の近代化(実学重視、洋学導入)
・近代的な学制・学校設立
・軍事改革(西洋式の訓練と装備)
・経済・産業の近代化政策
・官僚機構の合理化

辛亥革命から民国へ
1911年の辛亥革命後に中華民国が成立すると、梁は1912年に帰国。袁世凱の下で活動しますが、袁が帝政を狙うと、これに反対して護国運動を展開しました。その後、1917年に北京政府で政界復帰。黎元洪総統のもとで活動し、パリ講和会議の際には全権大使の顧問としてヨーロッパを視察しました。

 

辛亥革命後、梁啓超は北京政府(北洋軍閥)に付き従うが、後に下野

晩年と思想活動
晩年の梁啓超は、それまで紹介してきた西洋思想一辺倒の立場を改め、中国の伝統文化を再評価する方向に転じます。西洋文明の物質主義と、中国文明の精神性を融合させるための学術研究に力を注ぎました。
1929年、梁啓超は56歳で世を去りましたが、数多くの著作を残しました。それらは『飲冰室合集』にまとめられ、今も彼の思想を知る貴重な資料となっています。

 

梁啓超の本。下は梁啓超の年表

 

梁啓超の主な著作物
1896年『変法通議』
1898年『戊戌政変記』
1900年「少年中国説」
1901年「立憲法議」
1901年「中国史序論」
1902年『新民説』
1902年「論政府与人民之権限」
1902年『新中国未来記』
1902年『十五小豪傑』
1904年『飲冰室文集類編上』、『飲冰室文集類編下』
1906年「開明専制論」
1921年『清代学術概論』
1921年『墨子学案
1922年『先秦政治思想史』
1922年『中国歴史研究法』
1926年『中国近三百年学術史』

 

凌雲塔まで登山

 

梁啓超故居紀念館の裏山に建つ凌雲塔。高鉄の江門駅や珠海に向かう貨物線が見下ろせる

 

江門駅までは広州南駅から湛江西行き動車組が出ているので途中下車

 

梁啓超故居紀念館は江門駅から滴滴を使う

同記念館の営業時間は火〜日曜日の9時から17時

 

ご興味がある方は、下記までお問い合わせください

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